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ご意見ご要望をお寄せ下さい 日本共産党 副委員長・参議院議員 市田忠義
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市ちゃんの徒然なるままに
『多喜二祭』  2020年2月16日

「杉並・中野・渋谷多喜二祭」で連帯の挨拶をしました。

白樺派を代表する巨匠・志賀直哉に多喜二は傾倒し、学生の時、何度もファンレターを送っています。志賀の方も多喜二を大変気に入り、多喜二がプロレタリア作家としてデビューしたあとも、文学潮流の違いを超えて交流していました

志賀は多喜二より20歳も年上でした。

私は奈良市にある志賀直哉の旧居を何度か訪ねたことがありますが、実は多喜二も、1931年11月にそこを訪問し、宿泊していました。

1933年2月20日、多喜二は特高警察の拷問により命を奪われました。

その日は奇しくも志賀直哉、50歳の誕生日でした。
多喜二の訃報を知った志賀は、自分の日記に「小林多喜二……(余の誕生日)に捕らわれて死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快……アンタンたる気持ちになる」と書き記しました。

同時に志賀はその日記に、「不図彼等の意図、ものになるべしといふ気する」という一言を書き加えました。

プロレタリア作家でも共産党員でもない文壇の大家が、多喜二が権力によって虐殺された直後に「彼等の意図」、すなわち、多喜二や彼の仲間がめざす目標は「ものになる」と、書き記したその意義は大変大きいものがあると思います。

志賀直哉のいう「彼等の意図」とは何だったか。

それは、第一に、多喜二と、彼が所属する日本共産党が掲げた、主権在民、戦争反対、基本的人権など、日本社会の民主的改革の要求でした。

多喜二をはじめとする日本共産党員が、どんな弾圧にも屈せず掲げたこれらの要求は、当時は少数者に見えましたが、戦後、日本国憲法に明記され、世界の公理となりました。

志賀直哉の予想した通り、多喜二の「意図」は、まさに「ものになった」、すなわち現実のものになったのではないでしょうか。

もう一つ、多喜二の「意図」といった場合、資本主義の限界をのりこえて、搾取や抑圧、貧困や戦争のない、未来社会に道を拓くという理想も、そこにはふくまれうるのではないか、と私は思います。

『工場細胞』のなかで多喜二は、資本主義のもとで進められる科学技術の応用や、生産の組織化が、未来社会・社会主義を準備する条件となることも、作中に書き込んでいます。
これらは、マルクスが『資本論』でおこなった解明とも重なります。

志賀直哉が「ものになるべし」と述べた、多喜二の志と理想を引き継ぎ、希望ある未来をきり開いてゆきたいと思います。


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