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母の句集に寄せて


 七十歳を過ぎてから短歌を作り始めた義父(妻の父)が、人生の証にと歌集「朝暮」を自費出版した。今年で八十八歳、米寿である。全くの偶然だが私の母も今年米寿をむかえた。けっして上手とはいえないが母は俳句を作る。

 父亡きあと、必死で働きながら私たちを育ててくれた母。なんの親孝行もせず、逆に心配ばかりかけてきた。せめてそのつぐないに句集でもと思いたち、妻や兄弟に相談したところ「それはよい、父と母の米寿を祝い、歌集と句集の出版記念会でもやろう」と話がまとまった。

イラスト  昨年夏の参議院選挙、京都市長選挙、そして今年の総選挙と知事選挙。私にとっては多忙きわまる時期であった。しかし、仕事のあいまをぬって滋賀県の実家に帰って母の作った俳句や短歌のノート、同人誌「木耳」などをもちかえった。選挙の連続で帰宅は深夜になることが多かったが、晩酌をしながら夜中に母の作品を整理するのは私の楽しみでもあった。

  夜学び昼は勤めて得しお金肉など買えと送りてくれぬ

 母がこんな歌を創っていたことなどまったく知らなかった。私が法律事務所や龍谷大学の図書館に勤めながら立命の二部に学び、わずかばかりの仕送りをしていた頃の歌だと思う。おもわず涙がこぼれた。

  新しき学生服やピカピカの自転車届く暮れの園舎に

 これは、母が幼稚園に住みこみで用務員として働いていた頃の歌である。高校一年だった私と中学一年の弟も一緒に住みこんでいた。高校を卒業して京都に就職していた兄が私に通学用の自転車を、弟には学生服を送ってくれた。とびあがって喜んだことを昨日のことのように思い出す。

  我に似ず目鼻調う子に生まれ婚期来たれど嫁ぐといわず

 父が死んだため、恋人との結婚を先にのばし、旭村役場(現在の五個荘町役場)につとめて一家をささえてくれていた姉のことをうたった歌である。

 母は「まえがき」に「兄は弟を可愛がり、娘は父亡き後の一家を支え、文字どうり家族が肩を寄せ合って生き抜いてまいりました。」と書いている。

 母のいうとおり、とくに姉と兄、そして現在滋賀県で母と一緒にくらし、世話をし てくれている弟夫婦には私自身も感謝の気持ちでいっぱいである。

 いろんなことを心の中で思いめぐらしながら必死で整理した。

 母はなかなか達筆だが楷書ではないし、変体仮名を使うのでノートや手紙の字は私には読みづらい。「この字はなんと読むのか」とよく母に電話をした。ふだんは、二、三ヵ月に一度ぐらいしか電話をかけないが、句集発行のおかげで月に何度も母の声を聞くことができた。

 「忙しいのにすまんなあ」と恐縮しつつ、母も私の声を何度も聞いて喜んでくれている様子であった。

 とにかく、ようやく一冊の本にまとめることができてホッとしている。俳句としてのできばえがどうかは素人の私にはよくわからない。季語のない句もある。本人も、「本にするようなものではない、はずかしい」といっていた。しかし、つたなくとも母にしか表現できないなにかがにじみでていて一つひとつの作品が私の胸をうつ。

  母思い汲み置きくれし水槽の水一滴も無駄に使はず 


  迫りくる積乱雲におびえつつ車引く足いとどせかるる

 はじめに書いたように母は幼稚園の用務員として、住み込みで働いて私たちを育て、学校へかよわしてくれた。園児たちが手を洗ったりするための水槽に、手おしポンプでくみ出した水をいっぱいためるのが、毎朝の私と弟の仕事であった。母が病気のときは学校を休んで、少し離れた小学校へリヤカーをひいて給食をとりにいったこともあった。

 この頃の園児たちが、二十年、三十年たった今も、時々嫁ぎ先から郷里にもどってくると母に「お元気ですか」「長生きしてくださいね」と激励にきてくれるそうである。

 母は自分の子はもちろん、人の子も自分の子供のようにかわいがった。そして自分も貧乏をしているのに、困っている人をみるとじっとしておられない性格である。

 人間にも動物にも自然にたいしても、――この世のすべてにやさしく、あたたかい。それが俳句にも短歌にもにじみでているように思う。

  病む足も忘れ夕餉の一刻はギターに合せ我も唄えり


  百万の富よりなお尊きは母子団欒(まどい)の夕餉一刻

 食後の団らんの際に母から教わったことは多い。昔から小説や歌をはじめ本を読むのが好きであった。大変なロマンチストでもある。学校で習ったことよりも母から聞いた昔話や故事、ことわざの方をいまもよく覚えている。「人間万事塞翁が馬」だとか「燕雀何んぞ鴻鵠の志を知らんや」などということばはたしか幼い頃、学校で学ぶより早く母に教わったように思う。

 母はまた「影をしたいて」「国境の町」など藤山一郎や東海林太郎の歌が大好きで、よく一緒に唄ったものである。

 気が弱く涙もろいが、正義感が強く、まがったことがきらいなのも母の特徴である。

 私が竜大の図書館をやめ日本共産党の専従活動家になったとき「なにもお前がせんとうにたたなくとも」と当初はしぶっていたが、いまでは心から応援してくれている。

 まだまだ反共風土の根強い滋賀県の田舎で「忠義さんはどこにお勤めですか」と近所の人に聞かれて「日本共産党です」というのは、はじめはいいづらかったにちがいない。しかし今は、「なんにも息子は悪いことはしていない。人のため、世のためにがんばっている」と胸をはってのべているそうである。

 私は実に多くのことを母から学んだように思う。兄にも姉も弟もおそらく同じ気持ちだと思う。

 あらためて心から「ありがとう、お母さん」といいたい。

 米寿とはいっても現在の平均寿命から考えればそんなに年老いたわけではない。大西良慶さんの例もある。いつまでも元気で長生きして俳句をつくりつづけてほしいし、子や孫たちを見守ってほしい。

 そしてこんどは白寿を記念して第二の句集をもう一度みんなでつくってみたいと思う。

 1990年5月

市田 忠義 

(この文章は、市田志ん句歌集「幾山河」のあとがきとして書いたものです。なお母は、1993年6月、89歳で亡くなりました)


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